『捨て聖一遍上人 ~その人と教え~』 桐生南無の会24周年記念講演会より
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プロフィール
1941年東京に生まれる。大正大学大学院博士課程修了
埼玉県飯能市 金蓮寺住職・時宗宗学林学頭
時宗教学研究所長・遊行寺宝物館館長・大正大学非常勤講師等に就く。時宗の教学部門のスペシャリスト。
主な著書『一遍聖絵索引』『絵で見る一遍上人伝』『チベット大蔵経ナルタン版目録』など。
宗内きってのインド通でも知られる。 |
平成20年6月4日、浄運寺本堂一杯の参会者に恵まれました。その時、ミャンマーのサイクロン災害・中国四川省地震災害に対して義援金を募金いたしました。浄運寺婦人会の募金と併せて、合計73,247円を送ることが出来ました。心よりお礼を申し上げます。
以下7月4日号掲載分
・・・・今日は捨て聖一遍上人、時宗という宗派があります。浄土教です。鎌倉時代の終わりに出られまして、お寺も持たずに、遊行の捨て聖と言われていますが、日本国中を回って南無阿弥陀仏のお札を人々に手渡して、そして五十一歳で、神戸の観音堂、今は真光寺と言う時宗のお寺になっているのですが、そこで亡くなるのです。
その、時宗を開いた一遍上人についてお話をさせていただきたいと思うんですが、時宗の総本山は先ほど申しましたように神奈川県の藤沢市にございますが、大門の前に『時宗遊行寺』と書いてあるんですね。『ときむね』と読まれまして「トキムネさんのお墓はどこにあるんですか」という人が沢山いるのですが、それほど知られていない宗派なんです。
私は、南無阿弥陀仏の究極、どんどんどんどん突き詰めていって、最後に一遍上人の考え方にたどり着くんではないかと考えています。
一遍上人は、仏教史の中でどういう位置付けにあったのかというと、奈良時代・・その次が弘法大師(空海)伝教大師(最澄)がおられます平安時代、その後、浄土宗を開かれました法然上人から一遍上人までが鎌倉時代。隠元さんは江戸時代になります。
奈良時代は中国のお坊さんが中国で、修行・勉強して日本に渡ってくる。鑑真さんのように。そして宗派を開く。
その後、空海さん・最澄さんは平安時代。日本人が中国へ渡って、中国で修行・勉強して日本へ戻ってきて宗派を開く。
法然上人さんから一遍上人までがそうですが、日本で修行・勉強して、その後中国へ渡った方もおられますが、日本で修行・勉強して宗派を開く。
以下8月4日号掲載分
どこで修行したのかと申しますと、鎌倉時代勉強するなら比叡山と決まっているのですね。今の東大みたいなもので、その中で一遍上人だけは比叡山へ行っておりません。九州の太宰府で勉強・修行しております。
どうしてなのかと申しますと、一遍上人は河野水軍の出なんですね。瀬戸内海に、河野水軍・村上水軍此の二大水軍、武士の出です。河野家の出なんです。一遍上人が生まれる十八年前に、河野家は戦に敗れて没落をしております。
お父さんはお坊さんになりました。如仏と言います。その兄弟弟子に一遍上人を預けたのです。兄弟弟子が比叡山ではなくて、九州の太宰府にいたものですから、そこに預けたのです。鎌倉時代に一宗を開いた方は沢山いらっしゃいますが、その中で最後に出た一遍上人だけが九州の太宰府で勉強して、遊行の旅に出るのです。
ここの位置にあると言うことが、日本仏教の系統樹でお判り頂けると思うのです。
一遍上人の生涯はどのようにして分かるのかと申しますと、一遍上人の生涯を絵巻にしたものがあります。一遍聖絵と言いまして、十二巻証戒と言う方が作成したのです。
この一遍聖絵は国宝なんですね。紙芝居と同じように、字が書いてあって、絵があって、字を読んでゆくとその絵が出てくるようになっているんです。この一遍聖絵十二巻と、もう一つあるんです。一遍上人絵詞伝、十巻あるのですが前半四巻が一遍上人の伝記、後半の六巻が一遍上人の跡を継いだ二祖真教上人の伝記です。
後で述べますが、一遍上人は『捨て聖』と書いてありますように、亡くなる二週間前に、自分の持ち物は全部焼いてしまうんです。人が口に称える南無阿弥陀仏だけが残ればよい。こう考えて、自分のメモ類も全部焼いてしまう。
以下9月4日号掲載分
普通、一宗を開くような立派な方は、自分の言葉を弟子達に残すのが当たり前なのに、一遍上人は全部焼き捨てる。ですから『捨て聖』なんですね。自分の教えは自分一代限りで終わりです。南無阿弥陀仏だけが残ればよい。このようにして一遍上人は亡くなってゆくのですけれども、その一遍上人の言葉に背いて二代目を継ぎました遊行上人の他阿真教上人は、自分が一遍上人の跡を継ぐべき正統な人物であることを表すために、この一遍上人絵詞伝十巻を作ったんです。
ですから一遍上人の伝記は四巻で終わって、自分の伝記は六巻。この絵巻を作って、そのレプリカを何巻も作って弟子達に配る。私が正統な一遍上人の跡継ぎです、として作られたんですが、一遍上人の伝記も四巻ありますので、それもやはり参考にする。そうしますと、一遍上人に関する絵巻が二つあるんですね。
そのほかに、一遍上人語録。これは岩波文庫にもあります。全部焼き捨てたはずなのにどうして一遍上人の語録が残っているの?とお思いかも知れませんが、実を言いますと江戸時代に編集されました。どういうものかと言いますと、一遍上人が出した手紙、あるいは弟子達が書き残したもの、そういうものを全部集めました。
和歌もありますし、自分の考え方を四行の漢文の詩に表したもの、そういうものを全部集めまして一遍上人語録と言うのが出来上がります。
これが一遍上人を研究するための主だった資料と言われるものです。
で、一遍聖絵の絵というものは、カラーで立派なものなのですが、一遍上人は、どのような行いをして、どのような考えをしていたのか?よく『思想と行動』と言われますが、この一遍上人ほどこの思想と行動が一致している人はいません。
以下10月4日号掲載分
自分の考えをちゃんと行動であらわして、一生を終わっている。こう考えてください。
遊行籐沢両上人系図と(ゆぎょうとうたくりょうしょうにんけいず)言うのがありまして、一遍上人はどこに位置するかと言いますと、一番上が法然上人。法然上人には沢山のお弟子さんがおられますが、証空上(しょうくう)人、その流れを汲みまして証達上(しょうたつ)人、その下に一遍上人。法然上人から見ますと孫孫弟子。
法然上人から一遍上人まで約百年の間があります。南無阿弥陀仏に対する考え方も少しずつ違ってきている。一遍上人絵詞伝を作った二祖真教上人は一遍上人のお弟子。ずうっと続いていまして、最後が七十四代目他阿真円上人が現在の遊行上人です。『他阿(たあ)』と言うのは『他阿弥陀仏』の略で、二代目以降全部『他阿』を名乗ります。七百年の間に七十四代ですから、大体一代十年。
一遍上人は一二三九年から一二八九年、覚え易いんです。先ほど申し上げましたように、全ての持ち物を焼き捨ててしまいましたから、一遍に焼くと覚えてもらえば良いんです。それから五十年前、一遍にサンキュウ。五十一歳というのは鎌倉時代に短かったのかどうかというのがありますが、法然上人は八十歳、親鸞上人九十歳、それに比べて五十一歳。いかに遊行の旅が大変だったのか、私が想像するに、亡くなった時は栄養失調と暑さ当たりだという風に考えています。
一二八九年八月二十三日にお亡くなりになっているんです。旧暦ですから、今で言うと十月の始めぐらい、その年によって違いますが七月の暑いときから十月まで、四国を旅して淡路島を通って、神戸まで行って歩けなくなって亡くなっていくんです。
ですから、暑いときに四国を回って、淡路島へ行って、本当は自分の生まれ故郷へ。
以下11月4日号掲載分
先ほど一遍上人の思想と行動、これが合致していると言いましたが、一遍上人の三大行儀(ぎょうぎ)というものがあります。
『遊行(ゆぎょう)』、時宗の総本山は遊行寺、これは通称で清浄光寺で(しょうじょうこうじ)す。遊びに行くと書きますが、皆さんが夜どこかへ遊びに行くのと違って、日本全国を回って布教すると言うことです。
それから『賦算(ふさん)』というのがあります。算(さん)はお札(ふだ)、賦(ふ)は配(くば)るということです。お札配(ふだくば)り。遊行して念仏札配って、もう一つ『踊(おど)り念仏(ねんぶつ)』この三つが一遍上人の三大行儀と言われます。
最後の方になりますと、遊行していって、行く先々で踊り念仏をして人を集めて、最終目標であるお札配りをする。これをずうっと行ったんです。
これは、今の遊行上人が配っているお札です。一枚一枚版木に墨を付けてお上人様が刷っています。なんと読むのか?『南無阿弥陀仏』上は読めますね。下は二行になっていまして、読みにくいんですが『決定往生六十万人』(けつじょうおうじょうろくじゅうまんにん)。
実は、一遍上人の考え方、念仏思想というものはこのお札に全部込められています。どういう意味かと申しますと、南無阿弥陀仏を称えて臨終を迎えたときには、もう極楽に往生することが阿弥陀様によって決定しているんだ。ですから、毎日の生活は、安心してお過ごし下さい。これが一遍上人の考え方なんです。
一遍上人は、この考え方により、全ての日本人にこのお札を配って、全ての人が南無阿弥陀仏を称えて、毎日安心して生活すれば、この世が極楽のようになる。こう考えて、自分から進んで日本国中全ての人にこのお札を配ろうと、遊行の旅に出ました。
『六十万人』は何かと申しますと、別の意味もあるのですが、日本国中全ての人では限りがありませんので、まず六十万人に区切ったんです。それで、六十万人の人にお札を配ったら、また一から出直そう。こう思ってこのお札を一枚一枚出会う人に配っていったんです。
ですから、お寺も持たずに、お札配りに専念をする。今お話ししたように、一遍上人の考え方は、このお札に込められている
以下12月4日号掲載分
人々が南無阿弥陀仏を称えれば、何も極楽に往生(行かなくても)良い。この世が極楽のようになればそれで良いんだ、というのが一遍上人の考え方なんです。それは、南無阿弥陀仏について、ずうっと考え考え考え、法然上人や親鸞上人、他の方たちが言っていることを勉強して、そしてたどり着いた結論なんですね。それが『南無阿弥陀仏・決定往生、六十万人』
それでは、一遍上人は16年間、51歳で亡くなるまで、何人の人に配り終わって亡くなっていったのかと申しますと、60万人には遥かに達しませんで、25万1724人の人に配り亡くなっていったんです。
16年間の間ならもっと配れるのじゃないかと皆さん思うかも知れませんけれども、一遍上人と、時宗の坊さん・尼さん20人位が隊列を組んで旅をした。行く先々でご飯と紙を下さいとお願いをする。ご飯を頂けないときには、水を飲んで飢えをしのいだと言われています。
また、紙も今のように豊富な時代ではありませんから、行く先々で紙を下さいと言ったって、なかなか頂けなかった。そこで紙がもらえなければ、夜刷って昼間配ることが出来ない。お札を配れない時にはどうしたかというと、お十念を授(さず)けたと言われています。
念仏札を渡した人が25万1724人、どうしてそれが分かるのかというと、一遍上人は一日一日配った枚数をノートに付けていたんです。それを亡くなったときに集計いたしました。それで分かるんですけれど、今のお上人様も毎日配った枚数をノートに付けています。亡くなった時に集計をすることになっております。
一遍上人の生涯で、分かれるところがございます。35歳と36歳。35歳までは自分の修行をするんです。自分の気持ちを確立するための修行です。
以下2月4日号掲載分(平成21年)
36歳は、お札配りの遊行の旅に出て、人々を済度(さいど)する。ということで、35歳と36歳が生涯の分かれ目と言うことになるのです。
35歳まで自分の修行をするわけですが、九州の太宰府で12年間浄土教の勉強をいたします。その後お父さんが亡くなって河野家を継ぐので帰ります。結婚もしまして半僧半俗の生活、姿は坊さんの格好をして、俗世間と同じような生活をして、娘ももうけます。
ところが親族の葛藤が。河野家は落ちぶれていましたので、蒙古が攻めてくるときに舟を操って、水軍ですから手柄を立てれば河野家を再興できるということで親族会議が開かれます。その時に一遍上人はなんと言ったのか「私は12年間坊さんの修行しかしていませんから、筆は持てますが刀や槍を持って、舟の上で戦をすることはとんでもない」これは私の考えですが、
そう言ったに違いないです。容易に想像できますでしょ。で、親戚の者から刀で追いかけられまして・・・それはもう一つの絵巻物の方に載っています。
神奈川県の相模原市の原当麻(はら、たいま)という所に、元の総本山である無量光寺がありますが、そこの一遍上人のお木像があるのですが、頭を見ますと、刀で追いかけられて切られた傷があるんです。わざわざリアルに造ってあるんです。それで私は今申し上げたように想像しているのです。
そこで、再出家をしまして、奥さんも娘さんも置いて自分だけが遊行の旅に出るわけにはいかずに、まず奥さんも娘も連れてあと従者を1人、4人で遊行の旅に出るんです。
そして初めての賦算、お札配りをするのです。それからずうっと旅をして行きまして、熊野の本宮である転機を迎えます。そこで奥さんと娘を放ち捨て、別れるんです。
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