桐生南無の会のぺージです
時宗 青蓮寺 南無の会は、一宗・一派にこだわらずに、仏教の教えを語る現代版辻説法の会です。
桐生南無の会 人が人として生きるための教えそれが仏教です。
桐生仏教会100周年記・桐生南無の会26周年
念講演会講演録
「南無そのまんま」
講師:宗教学者・仏教評論家 ひろさちや先生
29周年記念記念講演会講演録「喜ばれる悦び」
講師:桐生災害ボランティアセンターセンター長 宮地由高 氏
28周年記念記念講演会講演録「東日本大震災に被災して」
講師:すばらしい歌津をつくる協議会会長 小野寺 寛 氏
27周年記念講演会講演録「無縁社会から有縁社会へ回帰」講師:篠原鋭一先生
25周年記念記念講演会講演録「心に高き帆を」 講師:長徳寺住職 酒井大岳師
24周年記念記念講演会講演録「捨て聖一遍上人~その人と教え~」
講師:時宗宗学林学頭、飯能市金蓮寺住職 長島尚道師
23周年記念講演会講演録「生かされて生きる」 講師:重恩寺住職 吉田正彰師
桐生南無の会 会長として掲載した文章 当山住職(本間光雄)の文章
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略歴
1936年 大阪市に生まれる。
1960年 東京大学文学部インド哲学科を修了。
1965年 同大学院博士課程を修了
気象大学校教授を経て大正大学客員教授
仏教を中心に宗教をわかりやすく説き、多くの人々の支持を得る。
宗教思想の研究、講演などに活躍。 |
『南無そのまんま』桐生南無の会二十六周年記念講演会、講演録に先立って。 7月4日号掲載文
6月4日、スカイホールには400人を超す皆さんにお越しいただき、イスが足りなくなり追加をするほどの盛況でした。お陰様で、素晴らしい桐生仏教会百周年、桐生南無の会二十六周年の記念講演会となりました。これほど有り難いことはありません。
講師にお招きしたひろ先生には、分かりやすく仏教の真髄をお説きいただきました。笑いの中にも、しっかりと記憶に残るお話しに、皆さん大いに納得されたことだと感じました。
後日参加された方から、「ひろ先生のお話を聞きして、本当に気持ちが楽になりました。有り難うございます。」というお礼の言葉をいただき、主催者冥利に尽きる思いを味あわせていただくことも出来ました。
講演の間、時ならぬ雷鳴とどろく大雨に見舞われていました。ところが、皆さんお帰りになる頃にはすっかり止んで、雨上がりのすがすがしい空気を味わう、心も体も本当に心地よい講演会となりました。
講演会が終わってすぐ、ひろ先生の著書が出版されました。1700円+税です。
=釈迦最後の旅『大般涅槃経』を読む=
80歳になっても老骨に鞭打ち、続けた最後の旅。人としての老いと向き合った苦難の道中を、パーリ語聖典の『大般涅槃経』から読み解くものです。春秋社から出版されています。
*私は、ひろ先生の著書と併せて松原泰道先生96歳の著書をお読みいただきたいと考えます。
=釈尊最後の旅と死・涅槃経を読みとく=
泰道先生は著作にあたられて、この本で、老病死苦や、だれもが味わう晩年の悲劇を、釈尊もまた経験したことを知って、読者の皆さんの持つ同じ苦悩をやわらげていただきたいと願っております。と語られています。
祥伝社からの出版で、1600円+税です。
『南無そのまんま』講演録 8月4日号掲載文
本日は『南無そのまんま』と題してお話しをさせていただきます。分かりやすい講演をしようと思うのですが、分かり良いか分かりにくいかというのは、話し手の能力の問題ではなしに、聞き手の能力に依存しています。ですから、皆さんの能力が高ければ分かり良い話になるんです。能力が低ければ分かりにくいわけで、その点は諦めていただきたいと思います。
分かりやすいところから入るならば、皆さん『舌切り雀』の話はご存知ですよね。お爺さんが大事に可愛がって飼っていた雀。お爺さんの留守中にお婆さんが作った洗濯ノリをなめて舌をちょんぎられたと。私『舌切り雀』と子どもの頃から教わっていたのですが、よく考えてみたら『舌切られ雀』ですよね。何であんなに日本語はおかしくなるんだろうと思うのです。
それで、雀は雀のお宿に逃げて帰っていった。お爺さんは「可哀想に」と言って雀のお宿を尋ねていった。そうしたらご馳走を食べさせてもらって、帰りにお土産をもらったと。大きなつづらと小さなつづらを出して「どちらでも良いですからお持ち帰り下さい」と言った。お爺さんは「私はもう年寄りだから」と言って小さい方を持って帰れば、中に宝物が入っていた。
それを見てお婆さんが、会場に大勢いらっしゃいますが・・・私も欲しいということで雀のお宿を尋ねて行ったら、やっぱりご馳走を食べさせてもらって、帰りに大きなつづらと小さなつづらを出してもらった。お婆さんはどちらを持って帰りました?
大きい方、みんなそうなさいますよね。そしたら中に化け物が入っていたと。
(先生の軽妙な話に引き込まれていきます。)
9月4日号掲載文
チョット皆さんにお聞きしたいのですが、もしもお婆さんが小さい方を持って帰れば中に何が入っていました?同じ化け物、お婆さんが小さい方を持って帰れば中に化け物という説が出てきたのですが、それに賛成の方はチョット手を挙げてください。少ないですね。
では、お婆さんが小さい方を持って帰れば、中に宝物が入っていたとそう思う人はチョット手を挙げてください。はい、そうですか。桐生って所はチョット変わっている所ですね。
私が原稿を書いておりまして、原稿を書いている時って、原稿の中身に関係ないことも色々考える訳なんです。ふっと思って、待てよ、お婆さんが小さい方を持って帰ったら何が入っていたんだろう。
すぐに台所に行って、女房を捕まえて聞いたんです。女房は分かったような顔をして「そんなの決まってます、中には化け物が入っています。」そう答えたわけです。
それでは、お爺さんが大きな方を持って帰ったなら、中に何が入っていたかと聞いたら。中に宝物が入ってったと言うんですね。私はその答えを聞いて女房に言ってやったんです「お前はアホか」って。私は大坂生まれです、18の時に東京に出てきてそれから東京の方で生活しています。大阪生まれですから『アホ』なんですね。女房は東京生の人間で「アホ」と言われると嫌らしいですね。東京の方は『バカ』の方が好きらしい。
とにかく女房に言ってやった「お前アホか」と、そうしたら「何でですか」って。あの舌切り雀の話って、お爺さんがバカだったという話しなのかって聞いたんです。そうでしょう、だってお婆さんは大きい方を持って帰ろうと、小さい方を持って帰ろうと、どちらも・・・
10月4日号掲載文
どちらを持って帰ろうとも、どうせ化け物でしょ。おばあさんに問題があるわけです。しかし、お爺さんはアホか?と。なぜ小さい方を持って帰った、大きい方を持って帰ればもっと一杯宝物がもらえたのに。そんな話ですか?だからそう指摘してやった。
女房は「ああそうですね」って気がついて、「じゃあ答え替えます。」で、おばあさんが小さい方を持って帰れば宝物が入ってた。お爺さんが大きい方を持って帰ったならば、中に化け物が入ってた。そう答えを替えたのであります。それを聞いてまた「お前はアホか」と。
何でですかと言うから、舌を切ったのはおばあさんですよ。おばあさんが舌を切ったのに宝物をやって、お爺さんには化け物をやる、そういう可能性が出てくるじゃないかと。
「そうですね」って言って困ったのですが、答え替えようがない。気がついて「解りました、雀は人間の心が読めたのです。おばあさんは絶対に大きい方を持って帰る。お爺さんは小さい方を持って帰る」と、人間の心が読めたからそうしたんだ、と。答えたんです。
その答えを聞いて、女房に言ってやったんです「お前はアホか」と。どうしてですかと言うから、「そんなに人間の心が読める雀であれば、何で洗濯糊をなめたのだ」、と。洗濯糊をなめれば、おばあさんに舌をちょん切られると分かっているじゃないかと。
女房、ほとほと困り果てて「それでは正解は何ですか?」って聞かれたわけです。実は、私話し始めた時には、分からなかったんです。でも女房をおちょくっている内にだんだん分かってきた。
11月4日号掲載文
それで正解を教えてやったわけです。お爺さんの時も、お婆さんの時にも、大きなつづらにも小さなつづらにも全部宝物が入っていたのです。みんな宝物が入っていたんですね。
そう教えてあげたら女房が不思議がって、お婆さんは化け物をもらったことになっているじゃないですか?って言うんですね。違うんです。お婆さんはちゃんと宝物をもらったんです、でもお婆さんは欲張りなんですね。もっと良いものが欲しいと思ったんです。もっと良いものが欲しいと思っているから、なんだこんなものしかくれないのか、これじゃダメじゃないかという心が化け物にしてしまったのですね。
宝物をもらっているのに、それを化け物にしてしまったのだと、私はそのように解釈しています。それを女房に教えてやったんです。これが仏教的解釈なのですね。舌切り雀の仏教的解釈だと。お分かりになります?難しいかな?
たとえば皆さんのお子さんが算数の試験の点で大体30点ぐらいしか取れないと。これはお子さんの責任じゃないのですよ。遺伝子の問題なのだから。
ところがそのお子さんがある時、70点取って帰ってきたわけですね。お母さんは喜ぶわけです。良くやったね、それでは今日はあなたの好きなカレーライスを作ってあげましょうと。ところが途中でお母さんは気になるわけです。皆さんも気になって聞いたでしょ。
それはそうとね、平均点は何点だ?と。そうしたらお子さんが、お母さん今日はみんな良くできたんだよ。平均点は80点だった。もうカレーライス作るの止めた。そう言うものですね。
普段30点しか取れないお子さんが70点も取って帰ってきた。宝物なんですね。その宝物を、平均点以下だからダメだと見る、それを化け物にしてしまっているわけです。
お子さんが一生懸命に取ってきた70点という宝物を評価できずに化け物にしてしまう。それは自分の心なんですね。これはね、百点取ったってダメなんです。それはそうと今日百点何人居たの?と。
12月4日号掲載文
お母さん、今日は百点取れた人が6人いたよ。なんだお前の他に5人もいたの、この百点値打ちがないのね。こうなってしまうのですね。
私たちは、みんな宝物なのです。仮に30点しか取れないお子さんがおいでになっても、そのお子さんは一生懸命にやって30点取ったのでしょ。それ、宝物なんです。それを、なんだ30点じゃダメじゃないのと見る、その気持ちですね。おかしいと思いませんか。百点取っても、なんだ他に5人いたの、とかいう見方ですね。
私たちは宝物をみんなもらっているんですね。それなのに、なんだこれじゃダメじゃないかと、それを見る気持ち、それがおかしいのだと。こう考えて欲しいのです。
仏教の教えは、みんな宝物なんだよと。皆さんのお子さん、みんな宝物なんですね。そのお子さん、それを私たちは優等生とか劣等生だとか、そんな風に区別して眺めている。
優等生は良いのだけれども、劣等生はダメなんだと。あなた優等生になりなさい。劣等生じゃダメよ。30点じゃダメじゃないの。10点ぐらい取って帰ってきたら、もう、こんな点数取って、ダメじゃないの。お父さんみたいになりますよ。子供を叱っている。可哀想ですね。
優等生が良くって、劣等生が悪いと、そういうものの見方、それを止めましょうと。それが仏教の考え方だと思ってください。
俳句を思い出したのでご披露します、季語が合っていないのですが
草いろいろ おのおの花の 手柄かな
これ、松尾芭蕉の句なんですね。草の花というのは秋の季語なんです。今はまだ初夏ですから季語が合っていませんが、秋の話であります。秋に草が色々咲いている。菊もあるしキキョウもあるし・・・雑草もある。
2月4日号掲載文
様々な草が咲いている、その様々な草が有ってこそ素晴らしい。いろんな草が有ってこそ秋の風景はいいんだと。菊ばっかり生えていたんではあまり面白くないんです。良い花も有れば、雑草やくすんだ花が有ってこそ引き立つ訳なんです。
だから、優等生が良くって、劣等生が悪いなんて、そういう考えは良くないんだと。優等生が居て、同時に劣等生が居て良い訳なんです。みんな優等生になれないんです。よく考えて欲しいのですが、百人の子供が居て、百人が百人とも優等生になれますか?そうじゃないですね。たぶん五十人が優等生で、五十一番から百番までが劣等生と、なるわけであります。
アリという動物、えらく勤勉な動物だと思ってきましたよね。でも、昆虫学者に聞いたらそうじゃないそうです。アリのうちでまじめに働いているのは大体二割しか居ないそうです。六割が普通のアリで、二割は極端な怠け者だそうです。だから、勤勉な奴が二割、普通が六割、怠け者が二割居ると、昆虫学者って、大体暇なんです。だからアリを観察したと。そうしたら、そうなっているということが分かったらしいです。
そこで実験をしたというのです。二割の働き者のアリばっかりで改めてコロニーを作った、そうすると最初はみんな働いて居るんです。そのうちに六割が普通に戻ってしまったのです。あとの二割は極端な怠け者になってしまったのです。已然として、まじめに働いているのは二割しか居ない。優秀なアリばっかり集めてもそうなるんですね。極端な怠け者ばかりを集めたのです、そうしたらすぐに二割が勤勉に、猛烈に働き始めたというのです。六割が普通になった、已然として怠け放題の奴が二割しか居ないと言うわけです。
3月4日号掲載文
これがご縁の世界なんです。優秀な奴が居るから劣等生が出てくるんです。劣等生のお陰で優秀な奴が出てこられるのです。私たちが生きている世界はご縁の世界ですね。みんな縁で生きているということなんです。それがこの世の中なんです。
ウナギはまだ産卵場所がまだ良く分かっていないのです。だから養殖ウナギは稚魚を輸入していて、いろんな国から稚魚を買ってきて育てるんですね。日本は色々な国から稚魚を買っています。台湾から買っていますが、カナダからも買っています。
カナダから日本まで飛行機で運ぶのですが十二時間以上掛かるんです。そうすると、ウナギの稚魚は繊細な動物で大体八割から九割が死んでしまうのです。日本に運んでくる間に皆死んでしまうのです。生き残るのは一割二割なんです。だから採算が合わない、高くつくのです。 で、もう止めようと思ったのですがある人がものは試しだからということで、そこにナマズを入れたのです。ナマズは稚魚を餌に食うのです。日本に着いたのを見てみると、二割は餌に食われていたそうです、ところが残りの八割はピンピンして届いたというのです。
何でピンピンしていたかというと、逃げ回るのです、食べられまいとして。だから二割は食われるけれども八割が元気に届くのです。
私たちは敵が居ない状態の方がよいと思うのですが、敵が居ないで輸入すると八割九割が死んでしまうのです。それが、敵のお陰で元気に生きられるのです。これがご縁の世界なんです。敵に助けられているんだという、そこを忘れないで欲しいのです。
会場に大勢いらっしゃるので申し上げにくいのですが、お年寄りがおいでになっています。若い方もおいでになっているので、若い方のために忠告しておきます。いいですか、絶対にお姑さんをいじめてはいけませんよ。なぜかと言えば、いじめればいじめるほどいつまでもふてぶてしく生きておられるんだから。至れり尽くせり大事にしていると、早く逝ってくれるかもしれんと。お嫁さんにいじめられているお姑さんがおられたら「ああうちの嫁は・・・」
4月4日号掲載文
これがご縁の世界なんです。劣等生がいるお陰で優等生が出てこられる訳なんです。そう気付いてほしいのです。劣等生は卑下する必要はないのです。優等生はしっかりと感謝しないといけない。「あなたのお陰で私が優等生になれました、有り難うございます。」と言って、頭下げるべきですよね。
劣等生は堂々と胸張っていればよい。「お前を優等生にしてやったんだ」そう思って生きればいい。それぐらいの気持ちでいるのが私は仏教の考え方だと思います。何も優等生が威張る必要はないのです。劣等生のお陰でなれたんだと、そう思っていただきたいのです。
私たちは、子供というのはみんな優等生であって欲しいと思っているかもしれない。でもね全員が優等生になれないわけです。私は、子供というのはみんな仏様から授かったのですよとお話ししています。
ある会場でそう言ったら、その後で一人のご婦人が聞きに来られたのです。「先生の言われることは良く分かりました。しかし、仏様から授かったと、それは良く分かるのですが、授かった以上は私の子供なんですね。」と所有権を主張しに来られたのです。私は「お預かりしている」と言うのです。
私たちの子供は、皆仏様からお預かりしているんだと、そう思って欲しいわけであります。中には、生まれながらに目の見えない子供もいるわけです、生まれながらに足の不自由な子供もいる。仏様が、この子足が不自由なんだ、どうか一生懸命育ててオリンピック選手にしてくれなんて頼んでおられない。「いいかい、ちょっと足が不自由な子供なんだ、変な親に預けると可哀想だから、あなた方夫婦はこの子を、足が不自由なまま幸せにして・・・・・・・」
この続きは録音でお聞きいただけます。お聞きになりたい方は連絡してください。
6月4日記念講演会、会場配布用パンフレットより。
ひろ先生と不思議なご縁をいただいて 桐生仏教会・桐生南無の会 会長 本間 光雄
本日は桐生仏教会百周年・桐生南無の会二十六周年の記念講演会にお越しいただき有り難うございます。
今回講師としてお招きできましたひろさちや先生とは、不思議なご縁があります。昨年二月に私はインドの仏跡参拝をしました。前年の秋にムンバイで爆弾テロ事件があり、その影響でしょうか、多くの参拝旅行が中止になったようです。私たちのツアーと同時進行するはずの参拝団も中止になったと担当者から聞きました。
そんな状況ですから、行く先々で日本からの参拝者には全く出会うことなく日程が消化されたわけです。
参拝旅行の四日目、私たち一行は霊鷲山で知られるラージギルに宿泊します。ブッダガヤからの道は順調で、今回の参拝旅行の主目的であった霊鷲山での日没も拝むことが出来、充実した気分でホテルに入ったわけです。
そのホテルで私たちは、初めて日本からの参拝団と出会ったのです。後にも先にもただ一回だけの日本人参拝団との出会いでありました。
その参拝団を率いていらっしゃったのがひろ先生であります。翌朝出発の時間がちょうど重なり玄関先で一緒になりましたので、自己紹介をしてご挨拶を申し上げ、記念写真までご一緒いただくことが出来ました。
桐生南無の会に足利から参加されていた女性が、ひろ先生のインド仏跡参拝旅行に参加され、たまたまそこに参加されていた男性と結婚するというご縁がありました。その仲人をひろ先生が務められたということがありましたので、そのことを話題にしましたところ先生は大変驚かれました。
たまたま足利仏教会の講演会でひろ先生が講演なさることが決まっており、同行していました足利市の義兄が、挨拶を申し上げることも出来ました。しかもその参加者の中に足利の方がいらっしゃるというおまけまで付いていました。
インドまで行って、そこで知り合いに会うことは奇跡に近いものがあります。今回先生とは、ラージギルですれ違うというコース取りの中での出会いで、実に不思議なご縁を感じることになりました。
この出会いがあったお陰で、今回の講師のお願いも気持ちよく引き受けていただくことが叶ったのかもしれません。 桐生仏教会百年の記念に最も相応しい先生をお迎えすることが出来、有り難いことと感謝申し上げる次第であります。