頚継地蔵尊
※千社札は厳禁です
青蓮寺の日限地蔵様は「頚継地蔵」(くびつぎじぞう)と古来より呼ばれてきました。なぜ頚継地蔵なのか?どうして日限地蔵と呼ばれないのか。そのわけがこの地に残されていた民話と、近年行われた解体修理により、ついに説き明かされました。
日本で唯一の頚が継ながる地蔵尊
リストラ封じに霊験がありそうです
頚継地蔵(くびつぎじぞう)の由来
このお地蔵様は、天正元年(1573)の三月、桐生五郎右衛門という人の寄進によるものです。桐生家の人だと思われますが歴史上にはその名前を見ることができません。しかも、青蓮寺を開山した由良家に桐生氏が滅ばされる直前に造られています。どのようないきさつで青蓮寺に祀られたのかは全く分かりません。
頚継地蔵の民話(清水義男氏編 ふるさと桐生の民話第3集より)
頚継地蔵~落人詮議の厳しい中で又兵衛一家の身を守る~
ある日のこと、桐生又兵衛は、第10代領主・桐生親綱さまの奥方のおそば近くに召し出されました。時は戦国時代末期のことでした。
「奥方さま。又兵衛にござりまする。お召しにより参上いたしました。」
「おお、又兵衛か、待ちかねたぞ。実はのう、そなたにぜひとも受け取ってほしいものがあってのう。」
「はっ?」
「そなたもよう存じておろう。当家代々の奥方の念持仏として、大切に守り伝えられてきた地蔵菩薩像のことを・・・・・・。」
「よう存じておりまする。」
「その地蔵菩薩像をそなたに差し上げたいと思うのじゃが、受け取ってくりゃるか?」
「尊像をわたしめに?それはありがたき幸せ。さりながら、本当にわたしめが戴いてよろしいのでござりまするか?」
「余の者に与えるのとは違い、一族であるそなたの屋敷内に祀ってもらえるならば、きっと尊像も納得されよう。大切にお守りくだされ。」
奥方さまから、主家伝来の地蔵菩薩像を拝受することになった又兵衛は、思いも寄らない幸せに、顔を紅潮させて屋敷に戻りました。そして、尊像安置のお堂の完成を待って、懇ろな供養をした上で尊像を祭祀しました。
ところが、又兵衛が地蔵菩薩像を屋敷内に移したことが、まるできっかけだったかのようにいくばくも経たないうちに、風雲急を告げていた桐生家と太田・由良家との間で、合戦の幕が切って落とされてしまったのです。
合戦は、桐生家が重要な拠点の一つとしていた下瀞堀(現在のコロンバス通り)の水門を、由良方が破壊するという事件に端を発したものでした。
桐生家は、先代・桐生大炊介さまの頃までは、北関東の雄と称えられ、強大な勢力を有していた名家でした。しかし親綱さまの代になってからは、一枚岩とまで称されていた「鉄壁」の和が崩れ、「家中不和」がささやかれるほどになっていました。
そういった家中の様子に愛想をつかして、由良家に通ずる家臣が出始めていた中での合戦突入でしたので、誰の目にも戦う前から、桐生家の敗戦は明らかとうつっていました。
合戦の火ぶたが切られますと、予想どおり桐生本陣へとどけられる報せは、「敗戦」「敗戦」「敗戦」という、悲しい報告ばかり。ついに半日そこそこのわずかな交戦の後、桐生家の居城・桧杓山城に火の手が上がってしまいました。その黒煙の中を城主・親綱さまが、佐野へ向かって落ち延びるに及んで、桐生家は実にあっけなく滅亡。由良家の大勝利が確定してしまったのです。
「由良家に投ずるものは、その限りではないが、あくまで桐生家に忠誠を誓う者どもは、たとえ足軽、仲間といった軽輩者とて決して容赦するでないぞ。一人も逃がさず引っ捕らえて首を打てい。」という主君・成繁さまの下知で、先勝後の由良家の落人狩りは、それはそれは厳しいものでした。
由良家に捕らえられて首を打たれる桐生家の家臣は数知れず、という地獄絵が出現しました。桐生一族である又兵衛一家は、敗戦と同時にいち早く屋敷を捨て、尊像ともども小さな隠れ家に潜んで、由良家の落人狩りの網から逃れようと図りました。
隠れ家で息をひそめ、小さく小さくなって暮らす又兵衛一家でしたが、樹間はるかに見られる、由良家家臣たちの小さな姿には、常におびえ続けていました。
「いつかはここも見つけだされ、捕らえられてしまうのではないだろうか。」
「処刑の憂き目にあうのでは・・・・。」
と生きた心地もなく、ゆっくりと眠る暇さえとれない日々を過ごすほどでした。
そんな又兵衛一家の長かったつらい日々が、やっと取り除かれる時がやってきました。厳しかった由良家の落人詮議の網がゆるみ、一家の隠遁生活に、わずかながらも安堵感を与えてくれるようになったのです。
「ありがたい、ありがたい。これもみな、お祀りしてきた地蔵菩薩さまの御慈悲、御利益のお陰に相違ない。」
と又兵衛一家は、改めて地蔵菩薩像にお灯明をあげお供えものをして、感謝の誠を捧げました。
「ほっ」とした日々が重ねられるようになったある晩のこと・・・・・又兵衛の夢枕に地蔵菩薩が立たれました。
「わたしは、そなたの屋敷内に祀られている地蔵菩薩じゃ。桐生家滅亡以来今日まで、わたしは、そなたとそなたの家族の身を案じて、あらゆる方法で救いの手を差しのべてきた。今や、そなたたちの身に及ぶ危険、災難は去り、わたしの務めも終わった。そこで今度は、わたしからそなたに頼みがある。夜が明け次第、このわたしを時宗の青蓮寺へ移し、その寺域に改めて祭祀してほしいのじゃ。以後、わたしは、多くの衆生に救いの手を差しのべていきたいと念願している。頼みましたぞ。」と言って姿を消しました。
目覚めた又兵衛は、夢枕に立たれた地蔵菩薩の言葉を思い返し、「あれほどの厳しい、由良家の詮議の網から逃れることができたのは、やはり地蔵菩薩さまの御加護のお陰であったか。ありがたや、あるがたや。」
と、地蔵菩薩に改めて感謝の手をあわせました。そして、夜が明けるのを待って、早速青蓮寺を訪れました。
「お願い申す。」庫裏の入り口に立つと、又兵衛は、大きな声を張り上げました。
「これはこれは又兵衛殿。誠に早いお越しじゃのう。何事がありましたかな?」
そう言いながら、式台にでてこられた住職に、又兵衛は、
「これこれ、しかじか。」と、これまでの経緯と、昨夜の夢の次第を事細かに伝えて、住職に寺での地蔵菩薩祭祀を懇願しました。
又兵衛の話を聞き終わりますと、住職は、
「それはそれは、何とも有り難いお告げじゃ。わかりました。お申し出を喜んでお受けし、拙僧が心を込めて供養、祭祀をさせて戴きます。」と言って、地蔵菩薩の祭祀を快諾してくれました。
青蓮寺に祭祀された地蔵菩薩は、お告げどおりにまもなくして、善男善女の悩みに仏の慈悲を与えるようになりました。
その霊験のあらたかさから、やがて、
「青蓮寺さんの地蔵さまは、たいへんな御利益を与えてくださる、ありがたいお地蔵さまですな。」
「まさに庶民の味方ですよ。」
「無病息災、生業安堵、子孫の厄災除けには、ことに霊験あらたか。本当にありがたいお地蔵さまですね。」と、庶民に慕われ信仰されるお地蔵さまとなりました。
今でこそ「青蓮寺の日限地蔵尊」と呼ばれていますが、かつては、「桐生又兵衛が、由良家の落人狩りの網を逃れて、無事に首がつながった」という故事に因んで、『頚継地蔵』の異名で長い歳月、人々から信仰されてこられたのです。